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「I九会」種子島・屋久島に行く
 
 鉄砲伝来の地「種子島」でI九会の記念大会をやることになったのは、昨年秋の第16回I九会コンペの時でした。 I九会はかってIBM九州に勤務した経験がある在京OBの親睦ゴルフ会ですが、メンバーの一人で種子島出身の八板陽太郎氏が、郷里にIT専門学校を設立しようと奔走していることを知ったのがきっかけでした。我々OBも協力しようという話が盛りあがって、まずは現地視察をかねてI九会記念大会を種子島でやろうということなったわけです。
 4月6日に総勢22名が鹿児島に集まって、翌7日に高速船で種子島にわたりました。
 種子島は、鹿児島の南約40キロに位置する、南北58キロ、東西12キロ、面積はほぼ横浜市とおなじ、細長い亜熱帯の島でした。島全体が平坦で、一番高いところでも282mといいますから、平地とゆるやかな丘陵の島といってもいいでしょう。サトウキビとさつまいもを中心にした農業と、豊かな海で漁業を営むのどかな島でした。ここではなにもかもがゆったりとした時間を刻んでいました。
 コンペの会場となったコスモリゾート種子島ゴルフコースは、種子島で唯一の本格的ゴルフコースで、ハワイやサイパンを思わせる、いかにも南国のリゾートという拵えでした。コースそのものは素晴らしかったのですが、海をわたる強風に悩まされた2日間のコンペではありました。
 コンペの合間を縫って訪れたのは「種子島開発総合センター(鉄砲館)」と「種子島宇宙センター」です。
 種子島は鉄砲伝来を抜きにしては語れません。訪問した鉄砲館では、鉄砲伝来にまつわる由来がビデオや人形劇で紹介され、様々な火縄銃や大砲が展示されていました。
 物語は1543年に中国の貨物船が種子島の小さな入り江に漂着したことから始まりました。その船に乗っていたポルトガル人から、種子島の領主時尭が2丁の火縄銃を購入して、刀鍛冶の八板金兵衛に命じて複製を作らせたのが最初です。金兵衛は1年足らずで10丁の鉄砲を製作し、当時種子島にいた堺の橘屋又三郎と紀州根来寺の津田算長によって本土に伝えられたとされています。6年後の1549年に織田信長が五百丁の鉄砲を注文した史料が残されています。十数年後には世界有数の鉄砲保有国になっていました。
 ノエル・ペリン著「鉄砲を捨てた日本人」によると、〈これを一語で言いあらわせば、技術革新にほかならない。アラビア人、インド人、中国人いずれも鉄砲の使用ではずっと先んじたのであるが、ひとり日本人だけが鉄砲の大量生産に成功した。・・・・〉とあります。鉄砲館に展示している火縄銃の実物を見ると、当時の日本の技術水準がいかに高かったかが実感されます。ノエル・ペリンは、鉄砲生産のみならず、天下平定後に鉄砲を放棄したことを絶賛しています。アメリカの銃社会を見るにつけても、その施策がいかに卓越していたかがよくわかります。
 種子島の後はオプションで、お隣りの島、世界遺産の屋久島を観光しました。
 屋久島は山だらけの島でした。〈山と山とが連なっていて、どこまでも山ばかりである〉これは楢山節考の書き出しの一節ですが、まさに山と山とが連なっていて、その間を急斜面の深い谷が隔てていました。このさほど大きくない島に千メートル以上の山がなんと47もあるというから驚きです。たとえていえば、横浜市に千メートル級の山が40あるのと同じですから、いかに特異な地形か想像がつきます。この特異な地形に海からの湿った風がぶっつかって、〈ひと月に35日降る〉といわれる大量の雨を降らせるのです。樹齢7200年と推定される縄文杉を育てたのも、もののけ姫のモデルになった鬱蒼と苔むした森林を育んだのも、ひとえにこの特異な環境のおかげであることは間違いないでしょう。
 一行は、九州で一番高い山「宮之浦岳」に登った3名と、バスを借り切って名所を観光したグループの二手に分かれました。バス観光とはいっても名所はほとんど山の中で、トレッキングシューズとレインウエアは欠かせません。
 鬱蒼と茂る深い森をあえぎながら登っていくと、そこはもののけ姫の舞台でした。しんと静まりかえった森の中で、風の音と谷川のせせらぎを聞きながら、樹木の匂いに満ちた濃厚な空気に包まれていると、あらゆる生命が凝縮されているような気がします。地表にむき出しに張りめぐらされた無数の木の根は、じっと眼を凝らしていると、突如くねりながら伸びてきて、身体中に巻きついてくるような錯覚におそわれます。もののけの気配はいたるところに感じられました。
 午後になって雨が降りだしました。屋久島の雨はらっきょうほどの大きさの雨粒だといいます。それほどではありませんでしたが、屋久島にきたからには雨に降られるのは当然で、レンタルで借りたレインウエアが大いに役立ちました。
 4月10日、それぞれの思いを胸に、全員が無事帰ってきました。
 さて、肝心のI九会コンペの結果ですが、楽しい仲間と共に、素晴らしい自然と歴史に触れ、至福の時間を共有したことにくらべれば、順位がどうなったかなど語るに値しません。
 奇しくも八板金兵衛と同姓の八板陽太郎氏が設立しようとしている「多禰(たねが)嶋(しま)システム工科学院」が、すぐれたエンジニアを輩出して、鉄砲伝来以来の技術革新を成し遂げることを願ってやみません。
2008年4月吉日 
文責: 川辺 洋一
 
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