トップページ   >  学生・講師・訪問者   >   種子島・屋久島を訪れて

種子島・屋久島を訪れて
2012.01
永井 啓之亮*
 
 ドラえもんの魔法のポケットには夢の道具が詰まっている。中でも「どこでもドア」は素晴らしい。ここを潜れば空間を超越し、何処でも、誰でも好きな処へ行くことができる。もう半世紀も前、早稲田の電気通信学科で共に机を並べた八板君が郷里の種子島に情報通信の学院を開いたという。この話を聞いたときに、先ず思い浮かべたのはこのことである。
 この日本では、かっての繁栄がバブルの崩壊と共に終焉してしまい、失われた20年を通して地域社会は疲弊し、過疎の問題は深刻である。国が全体として衰退の方向へ向かっていることは生活実感として理解できる。地域振興のため公共事業が大々的に展開されたが、その効果には限界があり、政権が行き詰ってしまった。代わって、「コンクリートから人へ」のスローガンの下、新らしい政権が登場した。しかし、衰退は加速されることはあっても、歯止めすら掛けられていない。今また、このスローガンの見直しが言われている。この政治の迷走は国勢の衰退に有効な解決策が見出せないこの国全体の苦しみとも思われる。
 そこで、「どこでもドア」である。種子島を例に取れば、光ケーブル網がすでに構築されたという。これにコンピュータを端末として繋げれば、そこが情報の「どこでもドア」になり、空間の壁を越えられる。それは地域に新しい産業を生み、雇用をもたらすだろう。さらに、住民の生活クオリティも大きく改善されると思われる。しかしながら、情報端末であるから、「どこでも」は可能であっても、「誰でも」そこを潜れるものではない。潜ることができるのは、そのための技術、いわゆるコンピュータリテラシィを会得した者だけである。八板君の作った学院はこのリテラシィ、つまり「どこでもドア」の通行手形を身につけさせるものであるだろう。
 大学のクラス会が八板君のコーディネイトにより種子島で催され、ついでに屋久島訪問も企画されていると聞いて、僕は単に、旧交を温めるのと、物見遊山気分で参加したに過ぎない。しかしながら、初日に彼の開いた西之表市のコスモ学院を訪れると、小さな島では貴重な平地に敷地を得て、立派な鉄筋コンクリートの校舎が建てられていた。教室に入ると、そこには商品の什器を設計したりデザインを支援するコンピュータシステムが設置されている。これらの設備には彼の意思だけでなく、背後にある市や町、地域社会の期待が込められていると感じられて、多少とも厳粛な気分にさせられた。
 今回のクラス会の参加者は7名、その内3名が夫人を同伴した。僕は11月18日(金)の朝羽田を8時頃出発し、種子島の西之表港には午後3時前に着いた。島のガイドさんに連れられて、種子島を有名にしている鉄砲の記念館、「鉄砲館」を訪れた。
 ここで学んだことだが、1543年中国の商船が種子島に漂着し、乗っていたポルトガル人から鉄砲がもたらされたと言う。その後、刀鍛冶で八板君と同姓の金兵衛によって鉄砲の国産化、多量生産に成功する。それは彼の血の滲むような辛苦の努力と娘をも犠牲にした悲劇によってもたらされた偉業であった。その僅か30年後、1575年三河の長篠合戦では、国内で生産された数百の鉄砲を持った織田信長がそれまで無敵だった武田の騎馬軍団を破っている。同じ頃、1521年スペインのコルテスはアステカ王国を、1533年にはピサロがインカ帝国滅ぼしている。如何に中南米の軍隊が勇猛果敢であったとしても、弓矢を武器とする大群は銃を持った少数の征服者の敵ではなかった。鉄砲の国産化、多量生産に成功していなかったら、武田勢が織田に圧倒されたように、中南米の軍隊がスペイン勢に蹴散らされたように、我国の武将に率いられた軍勢が当時の列強に蹂躙されるという悪夢の可能性があったろう。その後の悲惨な状況は考えたくもない。漂流船が種子島に流れ着き、そこに金兵衛が居たことが我国を救ったと言えよう。
 鉄砲館を後にして、種子島氏歴代の墓所である御拝塔(おはとう)を見学した。ここはこの島の由緒ある歴史を示し、翌日訪れた武家屋敷、月窓亭と伴に島に根付く高い文化を感じさせる。この日はその後、宿舎の「ホテルあらき」に戻り、ここで同窓会の宴会となった。気心の知れたもの同士、話が弾み、気持ちの良い楽しい会になった。
 2日目は八板君の運転するマイクロバスに乗って各所を廻った。種子島宇宙センターは宇宙空間への港ということで、ここも種子島らしい処である。この他、どこも目新しく、深い印象を受けたことを詳しく書きたいところであるが、紙面の都合もあり割愛する。この同じホームページにIBMの川辺氏が上手くまとめられた訪問記があるので、そちらを参照されたい。ただ、この島には思い掛けなくもマングローブの大きな林もあったことは特筆しておきたい。
 この日の晩は八板邸にて奥さんの手料理をご馳走になった。大きなガジョマルを抱いた庭園を生かすようにと建築家である息子さんが設計された邸宅は設計大賞を受けたという。広い居間から庭園を眺めながら山海の美味しい食事を頂いた。食事中、昨晩に続いて話が弾んだが、さらに、西之表市観光文化プロデューサーの鮫島氏にスライドを用いて興味尽きない種子島の歴史をお話頂いた。
 3日目は屋久島に移り、林芙美子が「浮雲」を執筆したという、「屋久島山荘」に宿をとった。夜は宿のご主人である田代氏のご好意で渓流を上り下りする屋台舟で宴会を開いた。
 4日目は深山に分け入り膝をガクガクさせて、後から来る若者に道を譲りながら、杉の巨木を訪ね歩いた。それでも、有名な縄文杉には届かなかったが、森林浴のトレッキングには十分な気分を味わえた。夜は連日続いた宴会の最後だった。この日も宿のご主人のご好意があり、華やかな朝日のような、その名も朝日蟹が美味しかった。
 最終日、11月22日(火)、屋久島には山岳地らしく多くの滝がある。これらの名瀑を訪ね歩いたあと、グループは解散となり、僕らは安房港から帰路に着いた。
 種子島と屋久島は昔2島で多禰国を形成していたという。2島を訪れてみるとその対照が際立っている。両島相補って今後も栄えてほしい。旅行に参加したメンバーの多くは、僕も含めて、これまで経験した観光旅行の中で今回が最高に楽しかったと言っている。勿論、この両島が観光地として素晴らしいことは言を待たない。しかし、それ以上に、ここで接した人達の行き届いた、心優しいもてなしに感じ入った面が多かった。旅行の企画と実施、全ての面でお世話になった、八板君と奥さん、その秘書で旅行社でもここまではという働きをされた深田さん、ガイドの白沢さん、観光文化プロデューサーの鮫島さん、屋久島山荘の田代さん等々、お世話になった方々に深く感謝したい。
 旅を終えて、年も改まり素晴らしい経験をした感激も少し記憶の彼方に移って行くようになる。そんな状況で、最初に見たコスモ学院の鉄筋コンクリートの校舎にあったコンピュータ支援デザインシステムが今の僕の印象の中で大きく広がっている。この学院の前途には種子島だけでなく、日本の地域社会、それは取りも直さず日本そのものであるが、その将来も関わっている。国難を救った金兵衛を生んだ地に、次の金兵衛が待たれているように思う。

(*:筑波大学名誉教授)
 
Copyright(C) 2008 NonProfit Organization コスモ学院 in tanegashima